札幌を訪れたことがある人なら、一度は耳にしたことがある「すすきの」。ネオンが灯るこの街は、日本でも有数の歓楽街として知られています。でも、「すすきの」ってどうしてそんな名前なの?いつからこういう街になったの?と気になる方も多いのではないでしょうか。
この記事では、すすきのの名前の由来や誕生のきっかけ、そして今に至るまでの150年以上の歩みをわかりやすく紹介します。
結論:すすきのの名前の由来には2つの説がある
すすきのという地名の由来には、以下の2つの説があります。
- 開拓使の工事監事だった「薄井龍之(うすい たつゆき)」の姓を取ったとする説
- この一帯が「茅野(かやの)」=ススキの野原だったという自然地名説
どちらも札幌市史や郷土史に記録されていますが、決定的な証拠はなく、今も両説が並び立っています。
すすきのの由来と2つの説
薄井龍之由来説
この説では、1871年に開拓使判官・岩村通俊が官許遊廓を設置した際、工事監事として名を連ねた薄井龍之の姓から「薄野(すすきの)」と命名されたとされます。札幌の郷土史家・脇哲氏の『物語・薄野百年史』(1970年)に詳しく記述されています。
自然地名説
もう一つの説は、この一帯が元々「ススキの野原」だったことに由来するものです。1869年の地図には「茅野」との記載があり、『札幌市史』(1958年)でも紹介されています。
北海道には自然に由来する地名が多く、たとえば「北海道の春・夏・秋が短くて冬が長いのはなぜ?」という記事では、気候による季節感が地名や暮らし方に影響していることがわかります。
→ 北海道の春・夏・秋が短くて冬が長いのはなぜ?
明治から現代までのすすきのの歴史
明治時代:すすきの誕生と遊廓の設置
1871年、岩村通俊の命により、南4〜5条西3〜4丁目に官許遊廓が開設されました。翌年には「東京楼」という妓楼が設置され、東京から遊女21人と芸者3人が招かれ、札幌随一の歓楽街がスタートします。
当時のすすきのは、札幌開拓にともなう都市機能の一部として成立しました。
大正時代:遊廓の移転とカフェ街への変化
1920年、市街地拡大に伴って遊廓は白石へ移転しましたが、跡地にはバーやカフェが立ち並び、歓楽街としての役割はそのまま継続されました。
昭和時代:戦後復興と黄金期
戦後、進駐軍の影響を受けてキャバレーやナイトクラブが増え、1950年には「新世界商店街」が誕生。翌年には「薄野銀座街」も形成され、すすきのは再び活気を取り戻します。
1973年にはホステス300人を抱える巨大キャバレー「エンペラー」も登場し、夜の街としての地位を確立しました。
平成〜令和:多様化とインバウンド化
バブル崩壊以降は大型キャバレーが衰退し、代わってキャバクラや居酒屋が増加。2005年には「ススキノ条例」により、風俗営業の規制が強化されました。
近年では、外国人観光客が増え、英語・中国語対応の店舗や、観光向けのインフォメーションセンターなども整備されつつあります。
観光地としてのすすきのと今後の課題
札幌市の2019年の調査では、すすきのの来街者の約3割が観光客。今では単なる歓楽街を超えて、国際的なナイトスポットとして知られるようになっています。
しかし、夜間の騒音、ゴミ、風紀などの地域課題も深刻化しており、持続可能な街づくりが必要とされています。
北海道ではこうした「地元と観光の共存」についても各地で議論されており、たとえば「北海道には梅雨がないって本当?」という記事では、観光シーズンと気候のズレが地域文化にどう影響するかが解説されています。
→ 北海道には梅雨がないって本当?
すすきのを知ると北海道の文化が見えてくる
すすきのは、北海道の歴史や文化、そして観光の流れを象徴する街です。その変遷を知ることで、札幌という都市の成長や、北海道全体の暮らし・文化の変化も感じ取れるでしょう。
同じく、道民の食文化をテーマにした「北海道の家庭にジンギスカン鍋は本当にある?」という記事も、すすきのとは別の視点から地域性を読み解くヒントになります。
→ 北海道の家庭にジンギスカン鍋はある?
すすきのの名前や歴史を知ったあとは、次に訪れたときにちょっと違う視点でこの街を歩いてみたくなるかもしれません。